村章

「ぎのざ」の頭文字「ぎ」の図案化。左に伸びる鋭角は村の発展を、円は村民の融和を表わす。また村旗を作成する場合、下地の色グリーンは平和を意味し、村章の色オレンジはみのりの豊かさを表わします。

村 長:東  肇
人 口:5,616人(平成22年10月末日現在)
世帯数:2,092世帯
面 積:31.32Ku

宜野座村役場庁舎

 1948年1月12日、米軍政府指令第4号によって沖縄群島における市町村長、2月8日、市町村議会議員の選挙が施行された。その結果、戦後初の公選村長で、3代村長に新里銀三(惣慶区出身)無投票で当選した。
 同年7月21日、米軍政府指令第26号「市町村制」が公布され、市町村自治体に法律秩序が与えられた。これにより、市町村は法人として公共事務を処理し、法令により市町村に属する事務を処理するように規定された。「市町村制」は、終戦後の市町村行政を民主的な制度に整備し運用させる役割を一応、果たすことになった。
 この年より本村では本格的に戦後復興事業が開始された。村役所の建築、点灯事業、簡易水道事業などの着手であった。村内には、宜野座総合病院、宜野座裁判所、宜野座警察署、宜野座地方刑務所などの公共機関が存続しており、戦後復興事業が他町村の先駆けになる要因であった。
 1950年9月3日、4代村長に田端景俊が就任した。1952年11月までの2年2ヵ月の在任期間中に、農業ダム建設を中核に農業振興計画の立案、宜野座村農業改良委員会の設置、教育委員会制度の施行、土地所有者権証明の交付、戸籍事務の整備など戦後処理業務の基礎を確立した。
 その間、村内の公共機関の統廃合もすすみ、宜野座病院、宜野座警察署は、それぞれに石川病院宜野座分院、石川地区警察署宜野座巡査部長派出所と縮小されて、存続した。1952年2月、民政府布告13号「琉球政府の設立」が公布され、同年4月1日に琉球政府が設立、4群島政府と臨時中央政府は廃止された。
 琉球政府は布告、布令、指令に抵触しない限りにおいて、琉球の政治の全権を担うようになり立法、行政、司法の三権分立が明確にされた。同月28日に対日講和条約が発効し日本本土と奄美、沖縄の行政分離が国際的に決定された。
 1952年3月2日、第1回琉球立法院議員選挙が執行され、新里銀三(3代村長で元沖縄群島議員)が第3選挙区で当選した。同年11月21日、田端村長辞任に伴う村長特別選挙が執行され、5代村長に浦崎康裕が無投票当選した。浦崎村長は歴代村長の中では一番長い3期、1964年までの12年間村政を担当、軍用地問題(第2章を参照)の解決で、村財政の大きな安定財源となった軍用地料を積極的に活用して村政を担当した。
 本村の二大政策である「農業立村」、「教育立村」は浦崎村長の時までに確立され、その二大方針は不動の政策方針としてその後、歴代村長に引き継がれ、現在に至っている。
 1964年(昭和39)12月13日、村長選挙が執行され与儀実清が8代村長に当選し、1972年(本土復帰前後)まで2期8年間村政を担当した。
 与儀村長は、在職中、企業誘致を積極的に推進し、まず、タピオカ工場(1965年)、パイン工場(1967年)、製紙工場(1971年)などであった。本土就職で流出する村内の若年労働者の村内での雇用の拡大を図ることと基幹作物(砂糖きび、パイン)の振興を図るためであった。
 しかし、村内の企業誘致は国際的な農産物自由化の影響等で順調に進まず、未着工、操業中止に追い込まれていった。 その間、琉球政府行政主席公選要求、教育公務員二法案、本土復帰要求大行進、B52爆撃機の沖縄配備等で、強化されていく軍事基地に対する反対運動、高等弁務官を頂点にした長期にわたる沖縄の異民族支配への反感、祖国復帰を叫ぶ社会運動が全琉で最高に盛り上がって行く時期であった。
 1972年(昭和47)5月15日、琉球の施政権がアメリカ合衆国政府から日本政府へ返還され沖縄県となった。 その年は、年始から年末まで本土行政制度の移行に伴う村政の緊張した慌ただしい動きが、村議会の議事録からも伺える。
 本土復帰後、県の各市町村の施政は本土化や本土水準を目標に推進された。1972年12月3日、末石森吉が10代村長に就任した。 村は、復帰後いち早く農林水産省補助による土地改良事業を導入して圃場整備が行われ、その整備は県下でも効率達成地域となっている。   しかし、土地改良事業による農業生産環境の整備が推進される反面、近年、専業農家の減少と農業後継者問題が台頭してきている。
 また、防衛施設庁補助による村中央公民館(昭和54年)、村有線放送センター(同年)、漢那漁港、学校施設、児童公園など村民の生活環境整備が着々と進められた。 1980年(昭和55年)12月16日、12代村長に仲程実湧が就任した。
 仲程村長は、2期8年間村政を担当した。「水と緑と太陽の里」を村づくり構想のキャッチフレーズに、「自然と産業との調和ある村づくり」を村政の主要施策として掲げた。 土地改良事業による農地の拡大の反面、一方においては失った緑を修復するために、緑化木などを生産管理する宜野座村緑化振興会を設立した。
 村内山林地域の軍用地内においては、水資源開発が行われ、潟原ダム、県営鍋川ダム、大川ダム、国営漢那ダムの完成をみた。 海浜においては、近年の大型開発計画でリゾート開発計画が打ち出され、沖縄県振興開発計画の一役を分担している。
 1988年(昭和63)12月30日、14代村長に伊藝宏村長が就任し2期務める。伊藝村長の主な施策は、翌年、元号が昭和から平成に変わった1989年、海浜においては宜野座リゾート開発の調印から始まり、90年代には山手軍用地内に国営の漢那ダム、村の大川ダムの完成をみた。ソフト面の展開として、村立診療所跡地への村保健相談センターの開設、村地域福祉センターの完成である。また、生涯学習の拠点としての村立博物館、国際交流拠点としての、村国際交流村の完成、漢那小学校50周年に伴う学校移転も実現した。生活環境整備の村の集落排水事業も最終の段階を迎えている。イベントも、漢那ダムまつりが開催され、現在も継続されている。

● 新たな産業の創出と健康文化むらの発信 ●
 1996年(平成8)12月30日、16代村長に浦崎康克村長が就任し2期村長を務める。平成12年にはてんぷす宜野座村を宣言し、全国へその町協議会に参加。2001年(平成13年)宜野座高校のセンバツ甲子園への21世紀枠いによる出場と、同年2月から阪神タイガースの春季キャンプ受入がスタートするなど、県内外に対し宜野座村を発信していくこととなる。
 村政は「健康文化むら」をキーワードに「てんぷす文芸大賞」の設立や、「かんなタラソセンター整備事業(現かんなタラソ沖縄)」建設による観光産業の発展、雇用機会の創出。「GARAMAN人材育成センター整備事業(現宜野座村文化センター)」建設による学習・芸能文化向上。「サーバーファーム整備事業(現宜野座村サーバーファーム)」建設による新しい産業分野の導入と、雇用機会の創出を図るなど、健康づくり、観光産業の発展と、情報化社会への積極的な参画に取り組み、
宜野座村の新たな側面を築いた。
 2004年(平成16年)12月30日、18代村長に東肇村長が就任。これまでの政策を踏まえながら、新しい時代の流れや大きな時代のうねりに対応するべく村政の取り組みやあり方、「健康づくり」をキーワードとした村づくりに取り組み、「村民健康ウォーク」の開催や、かんなタラソ沖縄を利用した健康づくりへの助成事業を展開。また、農水産業の経営改善政策をはじめ、「宜野座村第2サーバーファーム」建設による雇用機会の創出、「宜野座村広域ネットワーク整備事業」により、地域イントラネット網・ブロードバンド環境の整備に着手し、宜野座村の地域情報化を促進。
 2008年(平成20年)12月30日、19代村長として2期目を迎える。
本村の行政区は6区からなり、それぞれの代表的な文化・芸能・特産物など各区の個性が輝くオブジェが役場庁舎前にタイル画として設置されています。

松田区
古知屋岳を背景に豊かなダムの
水と美しい松。中央には、松田区
の村の守り神、獅子が描かれて
います。
宜野座区
県の無形文化財にも指定されて
いるチョンダラー(京太郎)を中心
に芸能や村芝居などを題材とした
タイル画です。
惣慶区
地域交流の場である公民館と綱引
きとエイサーの図が描かれたどん帳
のふたつで構成しました。

 

福山区
イッペイの花、人の手をデザイン
化。手の緑は自然(大地)と共に
天地の恵みに感謝しながら希望
と未来に向かって区民が一丸と
なって協力しあい力強く生きるイ
メージを表現。
漢那区
イラストに描かれた漢那ダムと下り
龍は、この地区の豊かな水を表現
。また、漢那平松は緑をお茶畑は
お茶の発祥地を表現しています。
   

  
城原区
地域の憩いの場である近隣公園と
住民の集いの場、公民館のふたつ
をあらわしました。